65歳パソコン教師の日記 NO.1466(2004.07.05)


【フォルダ内の音楽ファイルを連続再生】

 ハードディスクに保存した音楽ファイルを再生するには、ファイルをダブ ルクリックすればOKですが、複数の曲を連続再生するには「No.495」に書 いたように曲のリストを作成し、拡張子「.m3u」を付けて保存すればOKで すが、リストを作成するの大変ですね。

 「Windows XP」なら、音楽ファイルを保存したフォルダをカスタマイズす ればフォルダ内の曲を連続再生することが出来ます。

  1. マイコンピュータを起動、→音楽ファイルを保存したフォルダを右クリッ ク、→「プロパティ」をクリックします。

  2. 「カスタマイズ」タブを開き、→「フォルダの種類」欄のドロップダウン リストから「音楽 (オーディオ ファイルや再生リストに最適)」を選択、 →「OK」ボタンをクリックします。→(左欄に「ミュージックのタスク」 が表示されます。)

  3. 「すべて再生する」をクリックすると、フォルダ内の全曲が連続再生され ます。

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 投稿三人目は、ヘミングメイト「No.375 寺部律子さん」のエッセイです。

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「母への感謝」
                    
寺部律子(375 てっちゃん)


 九十歳の長寿を全うして 天国に行ったお母さん、あなたは戦争中の物資 の無かった時にも、なさぬ仲の兄と私を自分の大切な着物を米や麦に交換し て、私たちを飢えから守って我が子と分け隔てなく育ててくれましたね。い ろんな意味で、私の人格形成に大きく関わってくれた、あなたのお陰で私は どんな時にも明るく前向きに自分の人生を心豊かに歩むことが出来るように なりました。お母さんに心から感謝の気持ちで想い出を綴ってみたいと思い ます。

 私の実母は31歳の若さでこの世を去っています。私の4歳の頃であった が、当日のことをおぼろげながら思い出すことが出来ます。その日は、寒い 冬の日で火鉢の周りに親戚の者たちが集まっていて、余りにも幼くして母に 死別した私のことが不憫だと、泣きながら膝に抱き上げてくれたり、頭をな でてくれたが、皆がいろいろ私のことを心配してくれているのが嬉しくて、 一人で、はしゃいでいた記憶が残っている。

 母の死は心臓麻痺だったと大きくなってから兄に聞いたが、おかげで私は 母の体質を受け継ぐこと無く、現在まで病気をすることもなく、スキューバ ダイビングや水泳に挑戦できる健康な体に生んでくれたことを実母には感謝 している。

 私が小学校の一年生の時に父が再婚したので新しい母ができたが、親戚や 近所の人たちはよく私に「今度のお母さんは可愛いがってくれるかい」とか 「いじめられないかい?」と聞かれたが、母から嫌な思いをさせられたこと は全く記憶には無い。私にさまざまな影響を与えてくれたのは、実母ではな くこの養母である。この母からは本当に多くの大切なことを教えられたので ある。

 新しい母は、女学校の教師をしていたが父と結婚して、私が通う同じ小学 校の教師になった。戦時中の教育を実践する厳しい教師であったが、非常に 合理的な考えの持ち主であった。当時は男女が別のクラスであって、母は男 生徒のクラスの担任であった。

 私は勉強が出来れば「先生の子だから当たり前」と言われるし、勉強が出 来なければ「先生の子なのに」と言われるので、とにかく目立たない様に気 を遣っていたように思う。

 父は軍隊に行っていたのでその留守を守り義理の息子と娘を育てながら、 当時としては珍しかった職業婦人であった母の苦労は、なみなみならぬもの であったと今つくづく思うのである。

 父が戦地に行っていたこともあってか母は、私のしつけには厳しかった。 特に言葉使いについてはうるさかった。子供の時の言葉は大人になってから も抜けないから、きちんと正しい言葉使いをしなければ駄目だと常々言って いた。

 ある時こんなことがあった。私が外から帰ってきて台所にいた母に大きな 声で「お母さん水」と言った時であった。「水をどうして欲しいの?」と言 いながらコップ一杯の水を突然パッとかけられたことがあった。吃驚してい る私に母が言った。

 「人にものを頼む時は命令口調では相手は気持ちよく出来ないでしょう。 丁寧に言わなければ駄目ですよ。それに言葉は自分の意志を伝える大事な手 段なのだから正しく言い直しなさい」「お母さん口が渇いて飲みたいので、 水を下さい」と言い直して、新しい水を貰って飲んだことがあった。

 また敬語の使い方もしっかり教えられたので、社会人になって人前で話す 機会が多くなった時も、臆することなくきちんと話すことが出来たのは、母 のおかげであると心から感謝している。

 もう一つ食べることには、時間とお金を使っても無駄ではないという考え を持っていた。「食べることは体に貯金をすることだから郵便局や銀行に貯 金しておいても戦争やインフレで貨幣価値がなくなってしまうけれど、生き ている限り体は健康でなければ楽しくないからね」と言っていた。

 「栄養と教育は、身につければすべて自分の糧になる」との母の教えを守 って、私も自慢ではないけれど結婚45年が過ぎた現在も、ほとんど既製品 を使わずに手作り料理で、家族の健康管理に心がけている。

 当時としては進歩的で、美術展や映画にも時々連れて行ってくれていた。 父に面会するために、長い行列に並んで汽車の切符を手に入れて初めての汽 車の旅をし、家族旅行で父に会いに行った懐かしい想い出もある。

 弟が生まれた昭和18年頃も、知り合いに赤ちゃんだった弟を預けて、学 校に勤めていたのだが、戦火はますますひどくなって、空襲のたびに防空壕 に避難する日々では、人様の命はとても預かれないと断られてしまった。

 終戦の半年前に、やむなく育児のために退職しなければならなかったが、 戦争中は仕方がなかったと思うが、その時の無念であったことを後々、何度 も聞いている。

 母は、育ち盛りの私たちに食べさせるために、百姓であったかっての教え 子の家を回って、自分の大事な着物を持って行き米や麦と交換していたが、 私は母が頭を下げて家々を廻る姿を見るのが嫌であった。

 昭和20年夏、世界第二次大戦に終止符が打たれたが庶民には生活苦がの しかかってきた。いわゆる闇物資を買わなければ、食べることが出来なくな っていたし、極端なインフレで、先生をして蓄えていた貯金も貨幣価値の変 動で生活の足しにはならない時代であったので、三人の子供を食べさせるた めの母の苦労は大変であったと思う。

 終戦の2年後に、父が復員してきて元の職場であった専売公社(現在の日 本たばこ産業株式会社)に復職しが、酒好きの父であったので、家計は火の 車であった。

 私が中学3年生になった時は、終戦5年目を迎えていたが、まだまだ女生 徒の進学はクラスで一割位であったし、我が家の家計状態で高校進学は無理 と諦めていた。

 父も「女に教育はいらない高校に行く金で立派な嫁入り道具を持たせてや りたい」と言って私の進学には反対していた。しかし母は「嫁入り道具は古 くなったり、泥棒に入られれて、盗られてしまうこともあるが、身に付けた 教育は誰も取らないし、どんな時代にも役立つし、これからの時代は女性も 色々な資格を持って自立が出来た方が良いと思うから本人が勉強したいのな ら進学しなさい。若い時だから勉強が出来るのですよ。お母さんが内職して でも、行かせてあげるから頑張って勉強をしなさいね。その代わり公立を受 けなさいね」と言ってくれたのであった。

 母の期待を裏切らないで、私は名門進学校に合格した。保母資格を得て幼 児教育の場に、長年携わっていたが、結婚して子育てが終わった後、再就職 出来たのも、資格を持っていいたからであると母の先見の明に敬意を表した いと思っている。

 現在、この歳でも学校で非常勤講師をしているし、いろいろなことに挑戦 し、心豊かな人生を楽しんでいるが、終戦直後の不安定な時代に進学出来た お陰で、いろんな資格にチャレンジできる条件が与えられていることを今更 ながら母に感謝したいと思っています。

 お母さん本当にありがとうございました。


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